タイムスリップ物語 36

14日…この日、東軍と西軍は大いに動いた。
まず、午後に西軍の吉川広家から発せられた密使が、赤坂の
黒田長政の陣所に入った。
これは“毛利一族の戦闘不参加を誓う”といった密書を携えたものだった。
吉川広家は既に東軍と内通しているのだ。
長政は、これを福島正則と相談し、使者を井伊直政本多忠勝
引き合わせ、更に家康にも報告した。
そして、彼らは西軍の総大将たる毛利輝元の無罪と毛利の領土安堵を
約束するという条件で、毛利一族の動きを封殺したのである。

更に、小早川秀秋には東西両軍からさまざまな勧誘の手が伸びていた。
小早川秀秋は、亡き秀吉の正室・おねの甥っ子にあたる。
三歳で秀吉の養子として迎えられ、一度は秀吉の後継者を
約束された身であった。
だが、最終的に秀秋は後継者に氏名されず、そればかりか小早川家に
養子に出されてしまう。秀吉の親族でありながら、あくまでも
豊臣政権を支える一武将として存在することになった。
後の朝鮮出兵では、戦場で危機に陥った加藤清正の救援に秀秋自身が
出向いたが、それを軽率な行為として咎められ、秀吉から減封処分を
受けてしまう。秀秋は、この讒言を石田三成ら奉行衆によるものと
捉え、不満を募らせた。
このように、秀秋は不運続きな若者であった。
そんな秀秋に手を差し伸べたのがあの徳川家康だった。
以後、秀秋は家康に心を寄せるようになる。
さて…そんな秀秋は、今回1万5千以上もの大軍を引き連れて来ている。
戦局を左右しかねない大勢力だ。
東軍は以前から長政を通じて工作を行っており、
14日時点で既に秀秋は人質を出している。
そして、今後の秀秋の忠節次第では、秀秋に上方二カ国を進呈すると
約束していた。
一方の西軍も、石田三成大谷吉継長束正家安国寺恵瓊小西行長
五名による誓書を秀秋のもとに届けた。
そして、秀秋を関白するだの、これまでの領地+播磨一国を与える
だのと餌をちらつかせた。
両軍とも、なりふり構わずに秀秋を自陣営につなぎとめようとしていたのだ。

14日午後7時――――。
完全武装の西軍兵士が大垣城を密かに脱出し始めた。
遥か彼方の方に見える、西軍の長曾我部盛親の宿営地の
微かに見える篝火を頼りに、雨の中を進軍した。
その情報を入手した東軍も、
翌日15日午前2時頃…中山道を下って西を目指すことになった。
「ついにこの時が来たんだな…」
「ああ」
福島正則黒田長政は暗い中で支度を整えている。
「正則、合言葉は覚えたか?」
「“山が山”に対し、“麾が麾(さいがさい)”だろ?」
「敵味方の区別がつかない時はこれを使うんだぞ」
「分かってらぁうるせーなぁ…てめぇは俺の保護者か!」

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関ヶ原…そこには既に布陣している部隊がいた。
西軍の大谷・毛利・吉川・安国寺・長束・長曾我部・小早川らである。
それらを除くと、まず15日の午前1時頃に石田三成の部隊が関ヶ原に入った。
三成はその途中、既に布陣していた上記の部隊の陣所を訪問した。
毛利一族が徳川家康に内通しているとの風聞があったからだ。
その後三成は、山中村に布陣中の大谷吉継を訪問し、最終的な作戦を
打ち合わせたという。
雨と寒さで腹の調子が悪くなったらしい三成を吉継は案じ、
焚き火のもとに手招いてやる。
「寒かったであろう、少し休むか」
「大丈夫だ…すぐに戻る。それより、毛利や小早川はちゃんと動くだろうか」
「どうだろうな。私からも金吾には再度詰めを行ったが、微妙なところだ」
「…俺は、負けるわけにはいかない。皆と約束したからな…」
「分かっている。私がこの場所を陣取ったワケも、分かるな?」
「吉継…お前、まさか……っ」
「心配無用だ。君はこちらを気にせず戦えば良い」
吉継の言葉が何を意味しているのか、三成にはすぐ分かった。

石田隊に続き、関ヶ原の小池村には島津隊1500が、義弘と豊久がそれぞれ
二段構えで会わせて四段の鋒矢(ほうし)の陣を敷いた。
それから小西行長隊4000が、島津隊の右手…北天満山を背にして二段に布陣。
西軍最大の兵力を有する最後尾の宇喜多秀家隊17000は、南天満山の前に
五段構えで布陣した。
この時、西軍として関ヶ原に出陣した総兵力はおよそ84000人と言われている。
午前5時頃に、全軍が布陣を終えた。

対する東軍は、ちょうど西軍が布陣を終える頃に関ヶ原に到着した。
深い霧の中、先鋒の福島正則隊6000の先頭が宇喜多隊の小荷駄隊と
接触したのを機に、前進を中止し宇喜多隊と対陣する。
続く黒田長政隊5400、細川忠興隊5000、加藤嘉明隊3000、田中吉政隊3000らが
石田隊〜島津、小西隊と対陣した。
その背後には井伊直政隊3600、松平忠吉隊3000が布陣。
更にその後ろに古田織部隊、織田有楽隊らが控える。
福島隊の背後には藤堂高虎隊2500、京極高知隊3000、寺沢広高隊2400が
斜めに構え、大谷、小早川隊に備えた。その後方に本多忠勝隊500がいる。
東軍総大将の家康は南宮山の北側の桃配山に本営を置いた。
この他に、南宮山の毛利らの抑えとして、有馬豊氏山内一豊池田輝政
浅野幸長らの部隊が配備されていた。
以上、東軍の総兵力は約75000と言われている。
東軍諸隊が布陣を終えたのは午前6時頃であった。

―――――いよいよ、天下分け目の決戦が始まろうとしていた。